霊場巡りの由来

四国八十八ヶ所霊場めぐり

 今から1200年前、弘法大師が42歳のときに人々に災難を除くために開いた霊場四国霊場
後に大師の高弟が大師の足跡を遍歴したのが霊場めぐりの始まりと伝えられています。
人間には88の煩悩があり、四国霊場八十八ヶ所巡ることによって煩悩が消え、願いがかなうといわれています。
 徳島阿波(発心の道場1番から23番)、高知土佐(修行の道場24番から39番)、愛媛伊予(菩提の道場40番から65番)、香川讃岐(涅槃の道場66番から88番)に至る1450キロを巡拝する四国遍路は昔も今も人々の人生の苦しみを癒し、生きる喜びと安らぎを与えてくれる祈りの旅なのです。

八十八ヶ所由来の諸説

 八十八ヶ所由来はいろいろ説がありますが、八十八の煩悩からきたともいい、男四十二、女三十三、子供十三の各厄年を合わせた数、そして俗界三十二、色界二十八に、無色界二十八の見惑を合わせた数、またわれわれの命の糧「米」の字を分解したとするもの、曼荼羅の八葉蓮台の一葉一葉に十一面の方向(十一面観音様のお顔が全方向を向いているように)があるとした説、八雲、八重、八百八町、八百万神など八は末広がりでこれ以上のない満数、無限大で宇宙を表すところからきているとする説などさまざまです。けれどもこれらのすべてが当てはまるおもいがします。

高野山を発見

 弘法大師が遙かに都を離れ、しかも約1000メートルの高峰であるこの高野山を発見されたことについては、古くから一つの物語が伝えられています。
それは大師が、2ヶ年の入唐留学(にっとうるがく)を終え、唐の明州(みんしゅう)の浜より、帰国の途につかれようとした時、迦藍建立の地を示し給えと念じ、持っていた三鈷(さんこ)を空中に投げられました。 高野尋入事「高野大師行状図画」第四 写真
▲高野尋入事「高野大師行状図画」第四
その三鈷は空中を飛行して現在の迦藍の建つ壇上におちていたといわれています。
大師はこの三鈷の行方を求め、いまの大和の宇智郡に入られたとき、そこで異様な姿をした一人の猟師に逢いました。
身の丈2メートル余り、赤黒い色をした偉丈夫で、手に一張の弓と矢を持ち、黒と白の二匹の犬を連れていました。
伝説の「三鈷の松」 写真
▲伝説の「三鈷の松」
大師はその犬に導かれて、紀の川を渡り、やがて嶮しい山中に入ると、そこでまた一人の女性に出逢い「わたしはこの山の主です。あなたに協力致しましょう。」と語られ、さらに山中深く進んでいくと、そこに勿然と幽邃(ゆうすい)な台地がありました。
そして、そこの1本の松の木に、明州の浜から投げた三鈷がかかっているのを見つけて、この地こそ、真言密教にふさわしい地であると判断し、この山を開くことを決意されたそうです。このとき山中で出逢った女性は、山麓の天野の里に祀られている丹生都比売明神(にうつひめみょうじん)であり、漁師は狩場明神として大師の手によって祀られました。

四国遍路は心の旅

 日本では古代から自然の中に宿る神を崇拝する風習があり、特に辺境の深山や海原、大森林などは人々の信仰の対象でした。
 そうした神秘的な場所で瞑想したり、行を修めたりする修行が役行者などを中心に活発化し、いつしか一般の人にも巡礼遍路といった形で広がっていきました。
 今では「遍路といえば四国」と言われるほど、四国八十八ヶ所霊場めぐりは知られるようになりました。緑濃い深山や怒涛の太平洋、穏やかな瀬戸内海、平野と丘のうねりなどの自然。その厳しさ、やさしさ、仏の試練、人情の温かさを、しみじみと身に感じながら歩くことができる場所。四国遍路は、この魅力で人々を魅了し続けてきました。

弘法大師空海の足跡をたどる信仰の旅

弘法大師像 写真 四国巡拝は「お遍路」というスタイルをとり弘法大師が修行した跡をたどるです。
 平安前期の弘仁六年(八一五)に開創したといわれる四国八十八ヶ所霊場は、大師信仰が高まるにつれ巡拝者の数も増し、室町時代にはほぼ整備されました。
 江戸時代になると真言宗の僧侶の手によるガイド本「四国遍路指南」や「四国遍礼霊場記」など発刊され一般化しました。江戸時代も中期以降になると庶民の間で、一生のお参りに「四国八十八ヶ所めぐり」をと再び人気が上がり、これを感謝の意味も含めて「お陰まいり」と呼びました。四国遍路は、伊勢参りや西国・坂東・秩父などの百観音霊場めぐりとともに庶民の一大イベントとなったのです。

ページのトップへ