さて、いよいよ空海の生涯、最終編です。
晩年の空海がどのようなことを行ってきたか、そしてどのように最期を迎えたのかを書いてみました。
1. 道場や学校の設立、執筆
弘仁14年(823年)、空海は太政官符より東寺を賜り、
その際、この東寺を他宗にも開かれた真言密教の道場とし、名称も「教王護国寺」と改めました。
ちなみに現在も宗教法人としては「教王護国寺」で登録されており、
寺内の建造物の国宝・重要文化財指定を表す立て札には、「教王護国寺五重塔」などと記されています。
天長4年(827年)、官僧の最高位である大僧都に任命された空海は、
天長5年(828年)、私立の教育施設「綜芸種智院」(しゅげいしゅちいん)を開設し、
庶民にも教育を受ける機会を作りました。
当時は、教育の門戸は貴族や郡司の子弟など、一部の人々にしか開かれておらず、
空海の設立したこの学校は大変画期的なものでした。
綜芸種智院では、仏教以外にも法律・工学・医学・天文学・音楽ありとあらゆることを教えました。
残念ながら、資金難や後継者がいなかったことなどで空海の入滅後10年ほどで廃絶してしまいますが、
現在は種智院大学や高野山大学がその流れを受け継いでいるとされています。
天長7年(830年)、『秘密曼荼羅十住心論』を著しました。
秘密曼荼羅十住心論は、淳和天皇の勅にこたえて真言密教の体系を述べた書で、
10巻に及ぶ著書です。
後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』を著します。
2. 高野山隠棲、そして入定
天長8年(831年)に病にかかった空海は大僧都を辞めようとしましたが、
天皇から慰留されます。
翌年、高野山に隠棲するのですが、
病を得てからの空海は、真言密教の基盤強化と存続のために尽力しました。
承和元年(834)、東大寺真言院において『法華経』と『般若心経秘鍵』を講じました。
『般若心経秘鍵』は、空海最後の著作となります。
承和2年(835年)宮中で、真言宗最高の秘技と言われる
後七日御修法(ごしちにちみしほ)を行います。
申請してわずか10日で許可をとり、その10日後には修法が開催されました。
また、年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、
なくなるまでの短い間、特に最後の3ヶ月は濃い活動を行います。
そして、弟子たちに遺言をのこし、
同年3月21日に高野山にて逝去されます。享年62(満60歳没)でした。
最後、全てをことをやり終えた空海は入定、すなわち永遠の禅定に入った、とされています。
後の延喜21年(921年)に、醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られます。
3. あとがき
さてさて、とても簡単にではありましたが、5回にわたって空海の生涯を追いかけてみました。
その生涯を見渡して私が思ったのは、
真言密教の普及に対しての想いがものすごく高い方だったのだなということ。
そして、現在の日本のあらゆる文化に影響を与えているのだということ。
これらがとても印象に残りました。
「空海が関わっている」
正直、うすーくなぞったくらいの空海記ですが、
知るほど面白かった、というのが正直な感想です。
調べる上で面白いけれど端折ったエピソードも多々あるので、
機会があればそれらも記事にできたらいいなと思っています。