こんにちは!ハチハチ編集部の乙ママです!
四国お遍路のみならず、全国に数多の伝説を残している空海さんこと弘法大師ですが、
どのような一生を送られたのでしょうか。
このブログで、本当にさらっとではありますが見渡してみたいと思います。
少々長くなりますので、いくつかの記事に分けます。他のブログ記事を挟みながらになると思シリーズで書いていきますので、どうぞ気長に読んでいただけたらと思います。
目次
1.ご誕生
2.捨身ヶ岳(しゃしんがたけ)での請願
3.大学へ
4.仏道修行
5.唐へ渡る決意
1.ご誕生
宝亀5年(774年)、今でいう香川県善通寺市で、讃岐の郡司の家系にお生まれになりました。
空海の実家、善通寺です。
幼名は真魚(まお)といいます。
6月15日を、真言宗ではお誕生をお祝いする日「青葉まつり」としています。
2.捨身ヶ岳(しゃしんがたけ)での請願
7つの時、自分は世を救うという誓いを立てました。
家の近くにある山のうち一番高かった我拝師山に登り、
「私は仏法に入り、世の中の困ってる人々を救いたい。それが叶わぬならこの命を捨てて御仏に捧げます」
と申して、断崖絶壁から飛び降りたところ、天女が現れ真魚さまを抱きとめ「一生成仏」とおっしゃっいました。
真魚さまはこのことに大変感謝し、一層勉学に励みました。
飛び降りたとされる捨身ヶ岳。麓のお寺は出釈迦寺です。
3.大学へ
地元讃岐から15歳の折に都へ出て、
叔父である阿刀大足から論語、孝経(中国の経書のひとつ)、史伝、文章などを学びました。
のち18歳で大学へ入られました。大学では春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びました。
4.仏道修行
大学での勉強に飽き足らず、また世を救うものではないと感じ、次第に仏教に興味を持つようになりました。
そして大学を去り、仏道の修行へ身を投じられました。
大峯山や阿波、あるいは土佐の室戸崎などの霊所を求めて修行を続けられ、20歳の時に出家を決意します。
槙尾山寺で剃髪・得度し、名を教海(きょうかい)とし、のちに如空(にょくう)とあらため、身も心も御仏のお弟子となられました。
修行場の1つ、室戸岬の御厨人窟。ここでの眺めが「空海」の名のもとになったと言われます。
5.唐へ渡る決意
22歳の時、名を空海を改めます。
高僧に仏の教えを聞いても満足できず、最高の教えを求めて東大寺で祈願しました。
すると、その満願の日にみた夢の「大和高市郡の久米寺東塔の中に、汝が求めている教法がある」というお告げによって「大日経 」を発見しました。
しかし、経典の1部に理解できない部分があり、その教えを請える者が日本にはいないことから、唐へ渡る決意をしました。
久米寺。奈良県檀原市にあるお寺です。
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まずは、生まれてから唐へ渡る前までを追いました。
次回は唐へ渡ってからについて、書きたいと思います。