こんにちは!ハチハチ編集部の乙ママです!
空海の生涯を追うシリーズ第3弾です。
唐での修行を終え帰国の途に就いた空海が日本に帰ってからの物語です。
※空海の活動、言い伝え、業績、年代などには諸説あります。
1. 飛行の三鈷の物語
恵果和尚から真言密教を受け継いだ空海は、帰国の途につく直前に「私が受け継いだ、教法を広めるのによい土地があったら、先に帰って示したまえ」と祈り、手にもった三鈷杵(さんこしょ)を、日本に向かって投げました。
のちにその三鈷杵は高野山の御影堂(みえどう)前の松の枝で見つかり、空海はこの場所に金剛峯寺を建立されることとなりました。この松を「三鈷の松」とし、この三鈷を「飛行の三鈷」と称しています。
高野山にある「三鈷の松」
2. 2年の入京禁止
大同元年10月に九州の博多に帰り着いた空海ですが、都に行くことは禁止され、大宰府で待つようにいわれました。
(ちなみに帰国の際に持ち帰った経典などと一緒に「御請来目録」(ごしょうらいもくろく)という報告書を書き、朝廷(国)に提出しています。この「御請来目録」に、早期帰国の理由も記されています。)
入京が禁止されたのは、本来20年の滞在予定を2年で切り上げて帰ってきたからという説がありますが(当時の規定で罪にあたる行為)、同時に政情不安の影響であるなどの説もあります。
この頃、京の政情は不安定でした。桓武天皇の後に即位した平城天皇の体調が優れず、疑心暗鬼となった天皇は、伊予親王を謀反の疑いで捕らえられます。
空海に入京が許されたのは、嵯峨天皇の即位直後の大同4年、帰国から2年後のことです。
嵯峨天皇は、空海のよき理解者になった人物です。
3. 都の混乱と嵯峨天皇の苦悩、そして空海による祈祷
大同5年9月、薬子の変と言われる乱が起きました。
藤原薬子(ふじわらのくすこ)が兄の藤原仲成と謀り、嵯峨天皇を辞めさせて平城上皇の復位を目論んだと言われています。この乱は失敗に終わり、藤原薬子は自害、藤原仲成は処刑され、平城上皇は出家して僧になりました。
この乱による混乱、また度重なる遷都(都を移すこと)により民が疲弊していくことに心を痛めていました。
嵯峨天皇は、国家の安定と国民の不安をいかに鎮めるかを思案していました。
空海は、国を安定させるためには新しい仏教が必要であると申し出、天皇はその提案を受け入れました。
この時より「真言宗」という宗旨を開く許しを得て、いよいよ真言密教を 日本に広めることとなります。
空海は高雄山寺で修法をおこない鎮護国家を祈願しました。
以降1000年以上に渡り、平安京は日本の都となります。
そして、東大寺の別当(長官)に就任します。
さらに弘仁2年、嵯峨天皇から乙訓寺の別当を命じられます。
詩文や書に関心があった嵯峨天皇が唐の知識のある空海を少しでも近くに置いておきたかったことや、この寺には早良親王の怨霊が残っているとされており、空海にそれを鎮めさせようとしたため、と言われています。
乙訓寺
4. 高野山開創の物語
弘仁7年、空海は修行の場として高野山を賜るべく嵯峨天皇に願い出て受け入れられます。
こうして空海は高野山を開創するのですが、そのことについて物語が残っています。
伽藍(寺院の建物)を立てる場所を探すために高野山に入った空海は、道に迷ってしまいます。
道を行く空海は、1人の猟師に呼び止められました。
空海が唐から投げた三鈷杵を探していることを伝えると、猟師は2匹の犬を道案内に走らせました。
導かれてついていくと、8つの峰に囲まれた平原に至りました。
空海がここだと思い景色を眺めていると、三鈷杵が松にかかっているのを発見します。
この猟師姿の男こそ、地主の神である狩場明神の化身であったと伝えられています 。
高野山金剛峯寺
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さて、いかがでしたでしょうか。次回も楽しみにしていてくださいね。