こんにちは!ハチハチ編集部の乙ママです!
空海の生涯を追うシリーズ第2弾です。
今回は、空海が唐に渡り、密教を伝授されるまでです。
日本を発ってから上陸する時の逸話、密教最高峰の権威との邂逅、
若い空海がこの2年で得たものはさぞ大きかったのだろうと想像します。
1. 海での遭難と、上陸時の逸話
延暦23年、留学僧として遣唐大使・藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)と共に、
肥前国(今の長崎県)松浦郡田浦から唐へ向かって出帆します。
復元された遣唐使船です。こちら、つい3月24日にオープンとなった平城宮跡歴史公園の施設です。
しかし、嵐の直撃を受け1ヶ月以上も海上を彷徨った末、蘇州からは程遠い僻地に漂着しました。
出航した4隻のうち唐に辿り着いたのは2隻だったうえ、
国書を携帯していた副使の第二船の到着が嵐の影響で遅れていたため国書を提示できず、
大使が手紙を書いても怪しまれて信用されず上陸の許可がおりませんでした。
そこで、空海が現地の責任者に嘆願書を書いたところ、その文章が名文・名筆であったためようやく使節と認められ、
上陸を果たします。
2. 密教最高峰の師との出会い
長安の都に入り留学生活を始めた空海は、延暦24年に青龍寺の恵果和尚と対面を果たします。
正統の真言密教を継がれた第七祖で、唐では右にならぶ者のない名僧でした。
その人となりを初対面で感じた恵果和尚は、他の弟子らを抑えて異国の地からやってきた空海を己の後継者とし、
法を正式に伝える儀式である「灌頂」を行います。
青龍寺の空海記念碑です。
恵果和尚はまず、空海を正式な弟子とするため、三昧耶戒(さんまやかい)という密教の受戒を受けさせます。
そして灌頂を行います。頭に水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明するという儀式です。
元々は古代インドで行われていた国王の式典の風習を仏教が取り入れたものです。
空海は、5月に恵果和尚を訪ね、
その後、6月に早くも胎蔵界の灌頂を受け、7月に金剛界の灌頂、そして8月に伝法阿闍梨の灌頂を受けました。
異例の早さです。
こうして、大日如来を意味する「遍照金剛(へんじょうこんごう)」名を与えられて密教の第八代の伝法者の地位についたのです。
3. 帰国の途へ
恵果和尚は空海に持ち帰らせるために弟子たちに曼荼羅を描かせたり密教経典を写させたり、
法具を用意するなど、付法(師が弟子に教法を授けること)を進めていましたが、
空海への付法が全て終わったのち、12月に息を引き取りました。
空海が恵果和尚と出会ってわずか6ヶ月のことでした。
「私に持っているものをすべて授けた。だから早く日本に帰り、
この教えを持って天皇に仕えて、国の平安と人々の幸福を祈りなさい」
という師の遺戒に基づき、本来は20年という長期の留学予定を大幅に切り上げて長安を後にすることとなります。
空海は、密教のみでなく様々な分野の経典や書籍の収集、土木技術や薬学などの学びを経て、
大同元年10月に帰国の途に就きました。
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唐での学びを経て、空海は帰国することとなります。
しかし、修行僧として本来であれば20年の滞在をしなければならないはずであった空海は、
無事に入国できるのでしょうか。
次回もお楽しみに!